1000系


1次車と住宅公団車の導入

1970年に導入された初期車、抵抗制御。
1970年に導入された初期車、抵抗制御。

1970年に登場した南鉄では初めてとなるステンレス工法の車両が、この1000系である。外見上の違いとして、この前年(1969年)にほとんど同一の工法で作られた780形が導入されていたことから、780形との区別と視認性向上のため、貫通路上部に種別行き先表示機が設置された。そのほかにも当時大量に走っていた旧型車に極力揃えるため、貫通扉に行先幕も設置され、ほとんどの同形式でこの前面が継承された。最初期のこの車両にのみある特徴としては側面表示機がなく、足回りは抵抗制御となっている点がある。これは後年に登場する車両には見られない特徴である(側面表示機はこのあとの車両で採用され、足回りは界磁チョッパ制御などを採用する)。最初は旧型車が多く在籍していた東都線に優先的に導入された。

 

編成:6両

導入本数:10本

番台:0番台(01~10F)

1975年に開業した東都住宅開発公団ニュータウン線への転属工事後の姿
1975年に開業した東都住宅開発公団ニュータウン線への転属工事後の姿

1975年になると東都住宅開発公団(以下公団)が建設した、南鉄東都線真宮中央駅から分岐して、三野ニュータウン(後に東川ニュータウン北区域に改称)の終着三野駅に至る路線が開業。そこを走る車両として1次車を改造した車両を導入した。南鉄は足りなくなる分の補充として、界磁チョッパ制御の1000系を導入した(後に2次車と呼ばれる区分)。ニュータウン線への転属にあたって、改造工事として

  • 前面方向幕から種別の削除
  • 側面表示機の設置
  • 貫通路の窓の拡大

が東都線馬場大門車両区で行われた。その後の定期検査は一括して馬場大門車両区で実施されている。

 

編成:6両(1980年に8両化)

導入本数:5本

番台:0番台(01~05F)

1979年には輸送力強化のためにニュータウン線に直接、新造車が導入された。
1979年には輸送力強化のためにニュータウン線に直接、新造車が導入された。

当初入居者の増加はそこまで多く見込めないとされていた三野ニュータウンも、入居開始直後から多くの希望者が殺到する事態となる。その結果大変なことになったのは鉄道路線だ。開業当初から全ての駅が8両編成対応で作られ、10両編成への拡張用の用地が確保されていたが、肝心の車両は6両編成で運行されていたため、想定外の乗員を捌けるだけの輸送力が足りない事態となってしまった。頭を抱えた公団は1979年に、当時生産されていた2次車と共通設計の新型車両を導入することとなった。最初に運行本数確保のために編成単位での増産、その後輸送力強化のために既存の編成へ組み込む中間車(付随車)の生産が行われ、全車8両編成となった。そして予定を大幅に前倒して10両編成の入線に対応させる工事を実施。1986年には全駅が10両編成対応となり、南鉄東都線との直通運転が開始されたが、この時はまだニュータウン線内は各駅停車のみとなっていた。

 

編成:8両

導入本数:10本

番台:0番台


地下鉄への直通と2次車導入

1974年から導入された2次車。800形などで採用された、太陽をイメージしたオレンジ色の帯が追加された。
1974年から導入された2次車。800形などで採用された、太陽をイメージしたオレンジ色の帯が追加された。

1973年に入った頃から、乗務員からの評判がよい1000系増備計画が社内で持ち上がった。それと同時に本線では悲願とも言えた、地下鉄湾岸線との直通運転開始が刻一刻と近づいていた。当初は870形の増備を行なって運行される予定だったこの直通運転。しかし当時、沿線人口の増加によって、18m車両での運行は将来性を考えたときに、かなり厳しい状態になることが想定された。また当初、東都線にのみ投入されていたこの形式は、輸送人員確保の観点から、本線にも導入したいという社内の声も多く上がっていた。その結果この年の10月に地下鉄側と交わした協定文には、「20m車両での運行」という文言が盛り込まれた。突然の変更だったため地下鉄の一部駅延伸が行われ、計画より1年遅れの1976年から、直通運転を開始したのであった。その約2年前の1974年に、直通にも対応して本線の輸送力向上のために、2次車が新たに導入されるのであった。